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我が子も預かりもの

スペース海の活動を続けてきてよかった!と

思えることはたくさんある。

 

その中のひとつは自分の子どもを客観的に見る視点が

得られたことである。

 

スペース海で障がいのある子どもたちと関わり始める前、

自分の子どもに対して、

どうしても感情に流されることが多かった。

 

重度の知的障がいがある娘にも、

なんでこんなことができないのだろう・・

これができるようになればなあ・・

そんなこと思ってもしょうがないと分かっていても、

できないことより、できることを見つけることが大切だと

分かっていても、

こころの中から、

「なんでこんなことができないのだろう」という思いを

追い出すことができないでいた。

 

そして、そんな自分に苦しむ瞬間もあった。

障がいのある子どもの親の苦しみのひとつだと思う。

 

 

スペース海の活動を通して、

たくさんの障がいのある子ども、そしてその家族と出会った。

 

療育を通して学んだことは、

子どもと「曇りなく、透明なガラス」を通して向かい合うことだった。

 

先入観なく、予備知識も可能な限り排除して、

丁寧に向かい合う。

でも、あくまでも1枚のガラス板を二人の間に意識する。

 

その積み重ねは、私の子どもとの関係にも生かされた。

少しは自分の子どもに対しても客観的な視点をもてるように

なったような気がする。

 

改めてこんなことを考えてみた。

 

私たちは一生の間に、どれだけの人と出会うのだろう。

私たちは一生の間に、どれだけの人と言葉を交わすのだろう。

私たちは一生の間に、どれだけの人から支えられるのだろう。

私たちは一生の間に、どれだけの人を勇気づけることができるのだろう。

 

そう考えたら、

出会い、言葉を交わし、支えられ、そして支えようとする関係は

本当に本当に不思議なつながりなんだと思う。

 

その中に障がいのある子どもと親との関係もある。

それはそれは不思議なつながり、不思議な縁である。

 

この文章の中で、私は「自分の子ども」という表現を何度も使った。

私の子どもたちは私と家内の遺伝子をもって生まれている。

 

でも、だからと言って、「自分の子ども」なのだろうか?

自分の子ども、自分たちの子どもではなく、

ひとつひとつのいのちを神様から私たち夫婦に託されたと

言うことはできないだろうか。

 

「我が子も預かりもの」

託されたいのちを大切にしたい。

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